ジャン゠ウジェーヌ・ロベール゠ウーダン
Jean-Eugène Robert-Houdin

「近代奇術の父」。魔術師の衣装を脱ぎ、燕尾服で舞台に立った最初の人。
- 生
- 1805-12-07
- 没
- 1871-06-13
- 国・拠点
- フランス
- 時代
- 近代奇術の黎明
今日わたしたちが思い浮かべる「マジシャン」の姿は、この人が発明したと言っていい。とんがり帽子の魔法使いではなく、劇場の舞台に紳士服で立つ演者という形式は、19世紀のフランスでひとりの時計職人から始まった。彼が変えたのは演目ではなく、奇術という仕事そのものの定義だった。
主な功績
- 元は時計職人。その精密機械の技術を舞台装置に持ち込み、パリに自らの劇場を開いた
- 当時一般的だった東洋風・魔術師風の扮装をやめ、観客と同じ夜会服で演じるスタイルを確立した
- 奇術を「見世物」から「劇場の芸術」へと位置づけ直し、以後のマジシャン像の原型となった
- 後世のハリー・フーディーニは、彼への敬意から芸名を採ったとされる
時計職人の家に生まれて
ロベール゠ウーダンは1805年、フランス中部の町ブロワに生まれた。ブロワはパリの南西に位置し、16世紀から17世紀にかけて時計製造の重要な拠点だった土地である。父は時計職人で、息子も当然その道を継ぐものと考えられていた。
彼はオルレアン大学で教育を受けたのち、奇術の世界に強く惹かれていく。自伝によれば、そのきっかけは時計技術の専門書を注文したところ、手違いで奇術の本が届いたことだったという。この逸話は本人の記述に基づくもので、裏づけとなる同時代の別資料は確認できていない。
ただ確かなのは、彼が時計職人としての技術を捨てなかったことである。歯車と発条を精密に組み上げる仕事で身につけたものを、そのまま舞台の上に持ち込んだ。彼の代表的な演目である「不思議なオレンジの木」や「パレ・ロワイヤルの菓子職人」は、いずれも精巧な自動人形(オートマタ)を用いたものだった。
パリに自分の劇場を持つ
1845年、彼はパリのパレ・ロワイヤル、ギャルリー・ド・ヴァロワ14番地に自身の劇場を開く。ここで上演したのが「幻想の夕べ(Soirées Fantastiques)」である。
この劇場で彼が下した決断が、その後のマジックの姿を決めた。衣装をやめたのである。
当時の奇術師は、東洋風の長い衣や星の刺繍が入ったローブをまとい、いかにも「魔術師」という扮装で舞台に立つのが当たり前だった。ロベール゠ウーダンはそれをやめ、観客と同じ夜会服で、装飾を削ぎ落とした舞台に立った。
「不思議」の置き場所を変えた
この選択には意味がある。衣装で不思議を演出するのをやめるということは、不思議さの根拠を演者自身の技量と語り口に一本化するということだからだ。
魔術師の扮装をした人物が不思議なことをしても、観客は「そういう役の人だから」と受け取る余地が残る。だが自分と同じ服装の人物が同じことをすれば、逃げ場がない。仕掛けや衣装ではなく、目の前の人物が起こしていることとして受け取るしかなくなる。
この考え方は、その後150年のマジックの基本設計になった。現代のマジシャンがスーツやシャツで舞台に立つのは、この夜の延長線上にある。
アルジェリアへ
1855年、彼は最後の巡業を終えて舞台を退き、ブロワ近郊のサン゠ジェルヴェに移り住んだ。
ところが翌1856年、彼は引退生活から呼び戻される。当時フランスの植民地だったアルジェリアで、マラブーと呼ばれるイスラム教の宗教指導者たちが現地の人々に反乱を促していた。フランス政府は、この状況に対してロベール゠ウーダンの技術を用いようとしたのである。
この一件は、奇術が政治の道具として使われた事例として、しばしば取り上げられる。植民地支配という文脈を抜きに語ることはできない出来事でもある。
書き残すという仕事
引退後の彼が取り組んだもうひとつの仕事が、著述だった。1858年に刊行された『ある奇術師の打ち明け話(Confidences d’un prestidigitateur)』は、自身の半生と仕事について書いた自伝である。英訳は『Memoirs of Robert-Houdin, Ambassador, Author, and Conjurer』の題で広く読まれた。
演じるだけでなく、何をどう考えて舞台を作ったのかを言葉にして残す。この姿勢は、後世が彼を検証できる土台になった。今日わたしたちが彼について具体的に語れるのは、彼自身が書いたからでもある。
彼は1871年、サン゠ジェルヴェで生涯を終えた。
名前が受け継がれ、そして問い直された
半世紀後、アメリカで頭角を現した若い脱出芸人が、この人物への敬意から自らの芸名を決めたと伝えられている。その芸名がハリー・フーディーニである。
ただし話には続きがある。フーディーニは後年、1908年に『The Unmasking of Robert-Houdin(ロベール゠ウーダンの仮面を剥ぐ)』という書物を著し、ロベール゠ウーダンの功績とされてきた事柄の多くに異を唱えた。かつて名前を借りた相手を、自ら検証の対象としたのである。
この本の評価は今日でも一様ではない。だが重要なのは、ロベール゠ウーダンが「検証に値する対象」として扱われ続けてきたという事実のほうだろう。称賛も批判も、対象が歴史上の基準点であることを前提としている。
生地に残るもの
1981年、彼の子孫がブロワにある建物とその収蔵品一切を、一般公開を条件として市に譲渡した。この建物は1998年に「ロベール゠ウーダンの魔法の館(Maison de la Magie Robert-Houdin)」として開館し、ブロワ王城の向かいに立っている。館内には、彼が制作あるいは収集した170点の品が収められている。
時計職人の息子が、生まれ育った町に自分の名を冠した館を残した。奇術師としては例のない後日談である。
代表的な演目・著作
- 「幻想の夕べ(Soirées Fantastiques)」— パレ・ロワイヤルの自身の劇場で上演した公演
- 「不思議なオレンジの木」— 機械仕掛けの自動人形を用いた演目
- 「パレ・ロワイヤルの菓子職人」— 自動人形の演目
- 『ある奇術師の打ち明け話』(1858年)— 自伝。英訳は『Memoirs of Robert-Houdin』
年表
確認できた年のみを記載しています。
- 1805 フランス中部の町ブロワに生まれる。父は時計職人
- 1845 パリのパレ・ロワイヤル(ギャルリー・ド・ヴァロワ14番地)に自身の劇場を開く
- 1855 最後の巡業を終えて舞台を退き、ブロワ近郊サン゠ジェルヴェに移る
- 1856 フランス政府の依頼でアルジェリアへ渡る
- 1858 自伝『ある奇術師の打ち明け話』を刊行
- 1871 サン゠ジェルヴェにて死去
- 1998 生地ブロワに「ロベール゠ウーダンの魔法の館」が開館
親子で観るときの注目ポイント
- 演者が何を着ているかを見てみましょう。日常の服装で不思議を起こすという発想は、この人が始めたものです
- 大きな仕掛けよりも「間(ま)」に注目を。話しかけ、目を合わせ、ひと呼吸置く。その運びこそが彼の遺産です
- お子さんには「魔法使いの格好をしていないのに、どうして魔法に見えるんだろう?」と聞いてみてください
- 精密機械と舞台は遠いようで近い関係にあります。歯車を組む正確さが、舞台の正確さにつながっていることを想像してみてください
このサイトでは種明かしをしません
マジックのタネや仕掛けの解説は一切掲載していません。知らないまま驚けることこそが、この芸のいちばんの価値だと考えているからです。
公式リンク
出典
このページの生没年と実績は、以下の資料で確認しています。
- Jean-Eugène Robert-Houdin | Illusionist, Inventor, Showman Encyclopædia Britannica
- Jean-Eugène Robert-Houdin Wikipedia(英語版)
- Robert-Houdin Magicpedia(Genii Magazine)
- Memoirs of Robert-Houdin, Ambassador, Author, and Conjurer(自伝の英訳全文) Project Gutenberg
- House of magic(ロベール゠ウーダンの魔法の館) ブロワ市公式サイト