🇺🇸 1853–1932

アデレード・ハーマン

Adelaide Herrmann(本名 Adelaide Scarcez)

アデレード・ハーマンの肖像
アデレード・ハーマンの肖像米国議会図書館 (LCCN 94500214) / Public domain / 出典

夫の死から30年、一座を引き継いで舞台に立ち続けた「魔術の女王」。

生
1853
没
1932
国・拠点
イギリス生まれ/アメリカで活躍
時代
マジックの黄金時代
ジャンル
ステージマジック ・イリュージョン

夫が巡業先の列車のなかで急死したとき、彼女は43歳だった。一座は残り、公演の予定も残っていた。アデレード・ハーマンは一座を畳まなかった。そこから彼女の30年が始まる。

主な功績

  1. ロンドンに Adelaide Scarcez として生まれる。父はベルギー出身で、エジプシャン・ホールの設立に関わったとされる
  2. 1868年、キラルフィ一座の踊り子の一人としてアメリカへ渡った。曲乗り自転車の演者でもあった
  3. 1875年にアレクサンダー・ハーマンと結婚し、以後は夫婦で舞台に立った
  4. 1896年の夫の死後、一座を引き継いで単独の演者となり、以後およそ30年にわたって活動を続けた
  5. 銃を用いる演目を手がけた、数少ない女性演者の一人だった
  6. 1926年、ニューヨークの倉庫火災で道具と動物の一部を失い、1928年までに引退した

踊り子として海を渡る

彼女は1853年、ロンドンに Adelaide Scarcez として生まれた。姓は Scarsia とも綴られる。

父はベルギー出身で、ロンドンのエジプシャン・ホールの設立に関わったとされる。マスケリンが31年にわたって興行を続けた、あの劇場である。奇術の世界とは、生まれたときから近い場所にいた。

1868年、15歳前後だった彼女はキラルフィ一座の踊り子の一人としてアメリカへ渡る。彼女の出発点は奇術師ではなく、舞踊だった。 さらに曲乗り自転車の演者としても舞台に立っている。

体を使う芸で身を立てていた若い女性が、のちに奇術の一座を率いることになる。この経歴は、彼女の舞台が「マジック、優雅さ、そして音楽」と呼ばれたことと無関係ではないだろう。

1875年、結婚

1875年、彼女はアレクサンダー・ハーマンと結婚した。ニューヨーク市庁舎での式で、当時の市長ウィリアム・H・ウィッカムが立ち会っている。

以後、二人は夫婦で舞台に立ち、当時もっとも成功した組のひとつとなった。ここで重要なのは、彼女が助手ではなく演者として舞台に立っていたことである。銃を用いる演目にも取り組んでおり、これを手がけた女性は当時きわめて少ない。

1896年12月、突然の空白

1896年12月、アレクサンダーはペンシルベニアへ向かう列車のなかで心臓発作を起こし、そのまま世を去った。

残されたのは、巨大な一座と、大量の舞台装置と、契約の残った巡業日程である。

彼女はまず、後継者として育てられていた甥のレオン・ハーマンと組んで「ハーマン・ザ・グレート」の看板を継ごうとした。だが二人の関係は緊張をはらみ、その協働は長く続かなかった。

そして彼女は、単独で舞台に立つことを選ぶ。

30年

以後およそ30年にわたり、アデレード・ハーマンは自分の名前で公演を続けた。「魔術の女王(Queen of Magic)」と呼ばれるようになったのはこの時期である。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、女性が一座の頭に立って全米を巡業するというのがどれほど例外的だったかは、同時代の名鑑を見れば分かる。この時代の奇術師の名簿は、ほぼ男性の名前で埋まっている。

彼女は70代に入っても舞台に立ち続けた。

1926年の火災

終わりは、芸の衰えではなく事故によって訪れた。

1926年、ニューヨークの倉庫で火災が発生し、彼女の舞台装置が焼失した。飼っていた動物の一部も失われている。30年かけて積み上げた道具が、一夜で消えたのである。

それでも彼女はすぐには辞めなかった。規模を縮めた「Magic, Grace and Music(マジック、優雅さ、そして音楽)」という公演で巡業を続けている。踊り子から始まった彼女の生涯を、そのまま題名にしたような公演だった。

1928年、彼女は引退した。

79年間、行方不明だった自伝

1932年、彼女は『Sixty-Five Years of Magic(マジックとともに65年)』と題した自伝を書いた。踊り子と曲乗り自転車の演者としての出発から、アレクサンダーとの結婚、アメリカ・メキシコ・南米・ヨーロッパの巡業までを綴ったものである。

この原稿は、その後79年にわたって所在が分からなくなっていた。 のちに発見され、編者の手を経て刊行されている。

彼女は1932年に世を去った。自伝を書き上げた年である。

一座を継いだ女性の30年が、ほぼ一世紀の空白を経て、本人の言葉で読めるようになった。

代表的な演目・著作

  • ハーマン一座の継承と、30年におよぶ単独公演
  • 銃を用いる演目
  • 自伝『Sixty-Five Years of Magic』(1932年執筆)— 79年間所在不明だったのち刊行された

年表

確認できた年のみを記載しています。

  1. 1853 ロンドンに Adelaide Scarcez として生まれる
  2. 1868 キラルフィ一座の踊り子としてアメリカへ渡る
  3. 1875 ニューヨーク市庁舎でアレクサンダー・ハーマンと結婚する
  4. 1896 夫アレクサンダーが死去。一座を引き継ぐ
  5. 1926 ニューヨークの倉庫火災で道具と動物の一部を失う。以後は規模を縮めた公演「Magic, Grace and Music」を行った
  6. 1928 引退する
  7. 1932 死去。同年に自伝『Sixty-Five Years of Magic』を書いていた

親子で観るときの注目ポイント

  • 舞台に女性が立つことが当たり前でなかった時代があります。いま観ている光景の背景を思い浮かべてみてください
  • 演者が一人で舞台を回すには、演技以外の力も要ります。裏方の仕事も想像してみてください
  • お子さんには「昔は女の人がマジシャンになるのが難しかったんだよ」と伝えると、歴史が身近になります

このサイトでは種明かしをしません

マジックのタネや仕掛けの解説は一切掲載していません。知らないまま驚けることこそが、この芸のいちばんの価値だと考えているからです。

公式リンク

  1. Magicana(展示ページ)

出典

このページの生没年と実績は、以下の資料で確認しています。

  1. Adelaide Herrmann Wikipedia(英語版)
  2. Adelaide Herrmann Magicpedia(Genii Magazine)
  3. Adelaide Herrmann Magicana
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